大判例

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札幌高等裁判所 昭和44年(う)106号 判決

控訴人 原審弁護人

被告人 野口健壽 佐々木律夫

弁護人 星正夫 外一名

検察官 清水安喜

主文

原判決を破棄する。

被告人両名を各罰金一〇万円に処する。

被告人両名において右罰金を完納することのできないときは、金一、〇〇〇円を一日に換算した期間当該被告人を労役場に留置する。

当審訴訟費用は被告人両名の連帯負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、被告人両名の弁護人星正夫、同野切賢一および被告人両名各作成の控訴趣意書ならびに右弁護人星正夫作成の控訴趣意補充書に記載のとおりであるから、これを引用する。

弁護人星正夫、同野切賢一および被告人佐々木律夫の各控訴趣意中、原判示ハンカチおよびマツチがわいせつの図画に当らないとの点について

論旨は、原判示ハンカチを折り合わせて顕現される男性性器と女性性器は多分に戯画されたもので、しかも露骨詳細な描写とは断じ得ず、また性器の戯画の他に男女の人物が描写されているとか男女の姿勢が形成されているものでもないから、今日の社会通念上わいせつ性を備えているとは評価し得ず、また原判示マツチには浮世絵に模した女性が画かれているが、それだけでは到底わいせつ性ある図画とはいえず、二個(二種類)の組み合わせにより男女両性の性器らしきものが顕現されるとはいえ、それは必ずしも判然としたものでなく、説明を受けて始めてそれと思う程度のものであるとともに、前記ハンカチの場合と大同小異の戯画にすぎず、これまた現代社会の情感水準に照らし、特に羞恥嫌悪の情を抱かせるものとはいい得ないのに、原判決が特段の理由も付さず、右ハンカチおよびマツチをわいせつの図画と認定したのは理由不備ないし法令適用の誤り又は事実誤認を冒したものであるというのである。

刑法一七五条にいうわいせつの図画とは、その内容がいたずらに性欲を興奮又は刺激させ、かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する図画をいう。そして、問題となる図画が右にいうわいせつの図画に当るかどうかは、所論もいうように、一般社会に行なわれている良識すなわち社会通念に従つてこれを判断すべきものである。

以上の観点から、原判示ハンカチおよびマツチをみるに、まずハンカチには、上部に黒色および赤色の鬼面が画かれているとともに、下部には黄褐色の衣を着けた僧侶の図があり、一見何らのわい雑な感情をも抱かせるものではないけれども、原判示のように、その中央部を折り合わせると、右鬼面および僧侶の図は一変してそれぞれ女性および男性の性器を具現し、かつそこに具現される男女両性の性器は、多少戯画化、抽象化されているとはいえ、通常人をして容易にそれと分らせる形状を呈するものであるから、右ハンカチは、前述したわいせつの図画の要件を備えていることは明らかである。所論は、右ハンカチが中央部を折り合わせることによつてはじめて男女両性の性器を具現させることをもつて、そのわいせつ性を争うもののようであるが、右ハンカチは、いわゆる成人映画の宣伝の一手段として頒布ないし販売されているうえに、その右端には「ある色魔の告白」「色欲の果て」という、また左端には「女」「襲」等という文字がそれぞれ表示されており、これらの男女関係を示し又は匂わす文字を念頭におきつつ前記鬼面および僧侶の図をみると、それは一見右の文字と何らのつながりも持たないだけにことさら意味ありげな印象を与えることを否定できないことおよび右ハンカチにおいて男女両性の性器を具現させる方法である中央部を折り合わせるということはきわめてありふれたものであり、日常市販されている遊戯ないし娯楽品中にもこの種の手法を用いているものが見受けられることからすれば、右ハンカチの頒布ないし販売を受けた相手方としては、それほど労を要しないでそのからくりを察知し得ると認められ、このような場合においては、きわめて特殊かつ困難な手法をとつてはじめてそのからくりが判明する場合と異なり、当該図面のわいせつ性は否定されるものではないと解するのが相当である。したがつて、この点の所論はにわかに採用し難い。次に、マツチについては、「艶説明治邪教伝」「女浮世風呂」という各題名の入つた二種類のマツチとも、その図柄としてはいずれも浮世絵に模した女性が画かれているにすぎず、これまた一見何らのわい雑な感情をも抱かせるものでないけれども、右二種類のマツチの各一個を組み合わせることによつて男女両性の性器が具現し、かつ右男女両性の性器は図柄が小さいこともあつて、前記ハンカチに比べその具体性の程度は多少劣るとはいえ、通常人をしてそれと悟らせるのにそれほど困難を伴わない程度の形状を備えているものであるから、右マツチもまた、前述したわいせつの図画に当ると解するのが相当である。所論は、右マツチについても、それが二個組合わされることによつて始めて男女両性の性器を具現することをもつてそのわいせつ性を争うもののようであるが、右マツチも、前記ハンカチと同様にいわゆる成人映画の宣伝の一手段として頒布ないし販売されているうえに、それは相手方に一個ずつ頒布ないし販売されたというのではなく、原判示のように、同一の相手方に二種類のものが少なくとも二〇〇個は頒布ないし販売されていることおよび各マツチの性器を顕現させる部分はマツチの図柄にとつては全く不要なものでいかにも意味ありげな印象を与えるとともに、性器を具現させる組合せの方法は単に二個のマツチを並べるというきわめてありふれたものであることからすれば、右マツチの頒布又は販売を受けた相手方としては、それほど労を要しないでそのからくりを察知し得ると認められるから、右マツチは二種類のもの各一個という二個単位で、前記ハンカチと同様にわいせつ図画となると解するのが相当であり、この点の所論も採るを得ない。なお、当審において弁護人が市販物件であるとして提出した文書図画中Mirageと題する絵冊子(札幌高等裁判所昭和四四年押第二八号の二六)は、わが国と社会事情および国民性の異なるアメリカにおいて市販されているものと認められるから本件ハンカチおよびマツチのわいせつ性の判断に当つては直接参考とならないものというべく、またダルマ絵付タオル(前同押号の三二)は、本件ハンカチと同種のわいせつの図画と解する余地があるが、当審における被告人野口の供述によつても、その入手先、入手経路は必ずしも明らかでなく公然と市販されているものと断定し得ないのみならず、それが市販されているとしても、そのことは本件の情状に関する資料とはなるとしても、本件ハンカチおよびマツチのわいせつ性の判断に影響を及ぼすものとは認められず、その余のものはいずれも本件ハンカチおよびマツチと性格を異にするから、それらが一般に市販され不問に付されている事実から、本件ハンカチおよびマツチのわいせつ性が否定されるとは考えられない。

以上を要するに、原判示ハンカチおよびマツチをわいせつの図画と認めた原判決の判断は正鵠を得たものというべく、右判断には何ら所論のいうような理由不備ないし法令適用の誤り又は事実誤認は存しない。論旨は理由がない。

弁護人星正夫および被告人両名の各控訴趣意中、犯意の存在を否認する点について

論旨は、被告人両名はいずれも本件ハンカチおよびマツチがわいせつの図画に非ずと信じていたものであるから、犯意がないというべきであるというのである。

しかし、記録によれば、被告人両名とも、本件ハンカチおよびマツチの図柄とそれが、前述したように折り合わせ又は他のマツチとの組み合わせによつて男女両性器を具現することを十分知り、かつその頒布ないし販売が現今の善良の風俗に照し多少はばかるところのあることをも意識しつつ、あえて原判示所為に出たことが明らかであり、被告人両名においてこのような認識内容を有していた以上、本件わいせつ図画頒布、同販売の犯意に欠けるところはないというべきである。論旨は理由がない。

被告人野口の控訴趣意中、被告人佐々木との共謀を否認する点について

論旨は、被告人野口は、本件わいせつ図画の頒布および販売につき、被告人佐々木との間に共謀といえるほどの具体的な意思連絡を遂げていないというのである。

しかし、原判決拳示の証拠によれば、被告人野口は本件当時日活株式会社北海道支社長の職にあつたところ、同支社宣伝課長で部下に当る被告人佐々木から、本件ハンカチおよびマツチの頒布および販売がなされる前に、その現物又は図柄の案を示されて頒布等の許可を求められ、これに承認を与えていること、およびその際被告人野口としては頒布等の相手の階層および数量についてもおおよそ認識していたことが認められるから、同被告人は被告人佐々木との間に本件ハンカチおよびマツチの頒布および販売につき共謀を遂げていたものというべきである。論旨は理由がない。

弁護人星正夫の控訴趣意中、本件ハンカチおよびマツチの配布が頒布又は販売に当らないとの点について

論旨は、本件ハンカチおよびマツチ配布の相手方はいずれも日活直営館支配人、同契約館主等の被告人らと同格者であるから、被告人らの配布行為は、いまだ頒布ないし販売の準備行為にすぎなく、構成要件に該当しないというのである。

しかし、本件ハンカチおよびマツチの配布の相手方が所論のいうように日活直営館支配人、同契約館主等であつたとしても、同人らは本件犯罪の計画に何ら加担していないのであるから、同人らに対する配付が犯罪主体以外の第三者に対するものとして頒布又は販売罪を構成することは疑いのないところであり、これを犯罪共同主体間の内部的な準備行為と同視し得ないことはいうまでもない。論旨は独自の見解にすぎず、理由がない。

弁護人星正夫、被告人野口健壽、同佐々木律夫の控訴趣意中、量刑不当を主張する点について

論旨はいずれも原判決の刑の量定が不当であるというのである。そこで、考えるに、被告人両名はいずれも日活株式会社というわが国における有数の映画会社の相当な地位にありながら、計画的に本件のような世のひんしゆくを買うハンカチおよびマツチを大量に製作配布したものであり、その責任は決して軽くはない。しかし、他方、被告人両名とも、前述したように本件ハンカチおよびマツチが現今の善良の風俗に照らし多少はばかるところのあることを意識しつつも、反面それが刑法上わいせつ物としての取締を受けるとの確たる認識までも抱いていなかつたと認められ、その行為の軽卒さは責められるにせよ、必ずしもこれを悪質かつ破れんちな動機に出たものと断ずることはできない。また本件ハンカチおよびマツチはわいせつ物としての評価を受けることはやむを得ないとしても、それは発想の奇抜さもあつて、必ずしも露骨かつ具体的な描写を含むものではなく、かつ当審事実調の結果によれば、これと性質上かなり類似しているものが土産品店等に出まわり市販されている事実も窺える。その他、被告人両名にこれまで前科のないことやその会社における地位および平素における勤務態度、さらには本件が仕事熱心が度を越した行為とみる余地もあること等記録に現われた諸般の事情を考慮すると、被告人両名に対し各懲役刑を選択した原判決の量刑は重きに失するものといわなければならない。論旨は理由があり、原判決はこの点において破棄を免れない。

よつて、刑事訴訟法三九七条一項、三八一条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書に則り直ちに当裁判所において自判すべきものと認め、さらに次のとおり判決する。

原判決が適法に認定した事実に原判決拳示の法条(ただし、罰金刑を選択し、刑法二五条一項を除く。)および刑法一八条、刑事訴訟法一八一条一項本文、一八二条を各適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 深谷真也 裁判官 小林充 裁判官 木谷明)

弁護人星正夫の控訴趣意

第一点法令の解釈適用の誤り及び理由不備の主張

(一) 原判決は刑法第一七五条に請う「猥褻図画」の意義についての解釈を誤り、独自の判断の下に、本来「猥褻図画」に非ざる本件図画を「猥褻図画」なりと断定したのは違法である。

(二) 原審は本件図画は頭初より「猥褻図画」と認定しているがその認定の理由とするところを検討するに、これを「猥褻図画」なりと断ずるにつき十分首肯し得べき理由を示していない。このことは所謂理由不備の違法に当る。

以下その所以を述べる。

一般に刑法第一七五条に規定する「猥褻」の概念は、その内容が「徒らに(過度の意味)性慾を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人(成人を指す)の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する。」ことが要求される。

右は判例、学説の一致する見解である。

従つて猥褻なるためには善良な性的道義観念に反することが重要な一要素を占め、それは一般社会に行われている良識即ち社会通念に従つて判断されるべきであるが、かような社会通念は、社会及び時代によつて相対的流動的なものである。わが国においては第二次世界大戦の前後により、社会通念としての猥褻の観念は戦後における性の解放の風潮に乗じ戦前に比すれば驚くべき変化を遂げている。従つて猥褻の具体的概念も大きな変革がなされて来ておるのは当然であり、世上の常識が緩かになつて来れば刑法上の概念もそれにつれて当然緩かにならざるを得ない。

従つて原審は当然猥褻図面の概念を変革し、現時点において解釈適用して判断せねばならず且それでも尚本件図画が猥褻図画に該当するとするならば十分首肯し得べき理由を附すべきである。

然るに原審は事茲に思いを致さず当然のことなりとして理由も附していない違法がある。

成る程本件図画(ハンケチ)と事例において殆んど全く該当するものと思料せられる事例として昭和一四年(れ)第三六〇号同年六月二四日大審刑事一部判決(大審刑集一八巻三四八頁)が存するが、原審は本件ハンケチを右判決の手拭と同一視し戦前の三〇年前の判例を何等疑をさしはさむ余地なしとし踏襲して有罪としたものと思料されるが、これは全く猥褻性の社会及び時代による相対性、流動性を無視した判断をなしていると断ぜざるを得ない。

露骨と言い得ない程度に朧化され、隠蔽され美術化され抽象化された場合には見る物に特に淫卑なる想像の力を借りるに非れば羞恥嫌悪の念を生じないのである。

本件ハンケチを折り合せて顕現されたものは多分に戯画化されたもので、しかも露骨詳細な描写とは断じ得ず、性器の戯画の他に男女の人物が描写されているわけでもなく、何等男女の姿勢が形成されているものでもない。低劣卑俗な感を或は抱かせるとしてもさまで露骨でも具体的でもなく性慾を刺戟興奮せしめるというより折りたゝみ組合せることにより始めて発見した人をしておかしみと苦笑を誘う風のものであつて(誹風末摘花につき昭和二五年八月二六日東地刑一八判参照)これを現代社会一般の情感水準に照し特に羞恥嫌悪の感じを抱かしめる猥褻なものと認めるに足らず或は低級で社会風教上好ましからぬものであるとの非難は一部からあろうともこの程度のものを以て刑法による処罰の対象と為すには当らないと信ずる。

次にマツチの図柄を見るに、これは宣伝用のマツチのペーパー上に浮世絵に模した女性が画かれているが一個のマツチにては到底猥褻性ある図画とは云えず二個(二種類)の組合せにより男女両性の性器が顕現されるというのであるが、顕現されたもの自体それと判然するものではなく説明を受けて始めて左様なものかと思う程度のもので一見してこれを容易に識別するということは困難であり、説明書を付してあるわけでもなく実際説明を受けたものも部内の限られた者か一部の館主に過ぎないことは記録上から明らかである。

尚画かれた女性人物は同一人で宣伝文句、マツチの貼り方を異にしているに過ぎない。

マツチの使用目的は点火に在り、従つて配付の目的はあくまで本来の使用目的のために配付されたものであり、使用後は空箱として廃棄される運命に在るもので組合せという加工操作なき限り二種類の本件マツチは夫々の図柄において何等咎められるべき点はない。然も組合せの結果顕現される図画自体も前記ハンケチと大同小異のもので現代社会の情感水準に照らし特に羞恥嫌悪の情を抱かしめるものとは謂い得ない。

本件物件特にハンケチは映画宣伝物としては所謂小物と称するもので宣伝媒体としては数も少なく一般大衆に頒布する目的を持つものではなくましてや本来直接性慾を刺戟する目的で作られたものではなく、又専ら性的好奇心を挑発させ煽情肉欲的雰囲気を醸し出す意図のもとに描かれたものであることが窺われる態のものでも勿論ない。(昭和二六年一一月二七日東高裁第一二部判決参照)

被告人等は映画館主に商売意慾を煽るため不振の会社の業績を揚げるためのアイデアとして作成したものであつて被告人等自身も本件物件が猥褻図画であるとの認識のもとに作成を他に依頼したものではない。

本件物件の直接製作者自体も組合せ、折合せ方法を知らないし、製作者の製作意図、客体の使用目的からしても猥褻性は否定せられている。

付言するに此の種の物件は全国有名観光地温泉場は勿論警視庁管内での一例を挙げれば東京都中央区銀座八丁目六番二一号所在の店舗に大人のおもちやアイデアABCなる看板の下に公然ウインドウに飾られ通行人の足を止め販売されている事実がある。他にも東京の繁華街の真中にもかかる店舗は最近多く出て本件物件より明確なそのものズバリのものが販売されていることは衆知の事実である。その他本件ハンケチ類似の物件としてダルマを画いた手拭等も市販されている事実がありこれ等の点は当審において立証せんとするものである。

これらは全て大人のおもちやと看做されており、本件物件は正にこの範囲にも及ばないもので猥褻性など問題視されないものである。

以上の次第で原審判決は事実の認定を誤り、ひいては猥褻図面の判断にも違法があるから破棄せらるべきである。

(三) 仮に本件物件が猥褻図面であるとしても被告人両名はこれらの物件はいずれも猥褻図面に非ずと信じて頒布乃至販売(この点にも別項の如く疑義がある)したものである。

(原審第一回公判調書記録四六丁、四九丁)所で目的物の猥褻性を認識していなければ、故意があるとはいえない。この点につき判例は「刑法第一七五条の罪における犯意の成立については問題となる記載の存在の認識とこれを頒布販売することの認識があれば足り、かかる記載のある文書が同条所定の猥褻性を具備するかどうかの認識まで必要としているものではない」としている(最高判昭三二、三、一三集一一、三、九九七)しかしこれは刑法に所謂「猥褻」にあたるという認識が不要だという意味で正当であるに止まり意味の認識としての猥褻性そのものの認識の必要を否定している点で不当であると有力学者が指摘している(団藤総論二一五頁参照)本件において釧路の警察官が本件マツチを始めに発見したが斯様なつまらぬものはすぐ問題にする気配もなく当初始末書を徴取したに過ぎなかつた事実(当審で立証予定)も看過し得ず、被告人佐々木を当初取調べた警察官は昭和一四年の前記判例を示し本件ハンケチは猥褻図画だと納得させた事実がある。

この証左として司法警察員作成の藤塚董に対する供述調書記録三五八丁裏の第一五項には、「このマツチとハンカチはいずれも………誰がみても徒に性欲を刺戟興奮せしめ普通人の正常な性的差恥心を害して善良な性的観念に反する品物でありました」と記載されておるが、斯様な供述には全く任意性を欠く押しつけの調書と謂わざるを得ない。本件捜査は此の判例を金科玉条として進められたことは疑いないが、本件被告人両名には故意を欠いていたものであり、従つて本件はいずれも罪とならず無罪たるべきものである。

第二点(原審は本件物件の頒布販売を認定するについての法令の解釈適用の誤りがある。)

配布は現実たるを要するが故配付の準備行為あるのみにて之を頒布と認むることはできない。

(山岡、原理五八〇頁、同旨岡田(庄)各論三五三頁、江家、各論一七三頁、大判昭一一、一、三一刑集一五、六八頁、多数説)

所で本件物件が果して頒布乃至販売されたとするには多大の疑問が存する。何故なら被告人両名と配布先とされる道内日活直営館支配人、同契約館主等は同格者であり、これを一般大衆に頒布又は販売するかどうかは配付を受けた各人の判断に委されていたのが実状であり(その状況については記録中より摘記して追究する)。此の段階の起訴は未だ配布の準備行為に過ぎず到底頒布と認むることはできない。恰も公職選挙法における共犯者乃至内部の下部組織間における違反文書の授受の如きものである。

又販売というも実は被告人等の所為は映画宣伝費の実費を負担させたに過ぎないもので何等利益を得ている又利益を得ることを目的としたものでもない。

従つて仮に本件物件が「猥褻図画」だとしても此の段階で被告人両名を頒布、販売と既遂となし刑責を問うことは出来ない

次に原審判決は法令の適用において猥褻マツチ、猥褻ハンカチの各頒布販売をすべて包括一罪に擬律しおるも、種類、日時、配付先等を異にする関係で両者は併合罪の関係に在るものと思料するが、被告人両名の不利益とはならないので敢て主張はしない。

第三点原審判決はその量刑が極めて不当である。

前述のように原審判決は事実の認定を誤り、誤つた認定を基礎として量刑上の判断がなされているものであるし、巷間の婦人雑誌、週刊紙が相当思い切つた題材、記事等を記載していても世人は別に怪しまない現実と本件物件はその場の軽い意味の大人の玩具に過ぎず社会害悪を発生したと解するは余りに「大人気ない」解釈である。さきにも述べた釧路の警察官が本件物件を始めに発見したが斯様なつまらぬものは直ぐ問題にする気配もなく帯広警察署が問題にするに及んで始末書次いで聴取書をとるに至つた事実を看過し得ない。

仮りにそうでないとしてもさきに縷説せる如く被告人等の本件物件の製作意図、客体の使用目的、その用法に従つて使用された場合の使用者、特に本件マツチが一個あて観客などに配布されていた実状、又よく客観的に本件物件が猥褻図画に該当するとしても主観的には猥褻図画に該当しないものと信じて配付したもので悪質性は認め得ない。本件被告人等の犯行動機は全記録からも窺われる通り特別考慮してみねばならない計画的な故意があつたわけでもない。同種の前科前歴なく又再犯の虞れなど全くない前途有為な被告人両名の今日の行状、社会的地位その他現時社会に及ぼす影響等諸般の事情をあわせ考えれば量刑においても軽き罰金刑を相当と思料せられるのに原審判決は選択刑中重き体刑を以て処断せられたのは過酷と謂うの他なく此の点からしても原審判決は破棄せらるべきものと信ずる。

以上何れの点よりするも原判決は破棄を免れないと信ずるので原判決を破棄し相当裁判あらんことを求める次第である。

弁護人野切賢一の控訴趣意

第一点、原審判決には事実誤認の違法或いは法令の解釈を誤つて、罪とならない事実を有罪と認定したものであるから、原判決は破棄さらるべきもので、被告人らに対し、無罪の御判決を賜わりたい。

当弁護人は原審においては、被告人らの所為についてはこれを有罪と認め、その情状とくに本件図画の猥せつ性の稀薄さの故に罰金刑をもつて処断すべきものであると主張したところであるが、原判決はその主張を受入れることができなくて、被告人らに対して体刑を以つて処断し、但し執行猶予の特典を与えたに過ぎなかつたものである。

原判決後、当弁護人の研究の結果によると、猥せつ図画の猥せつ性なるものは時代と共にはげしく変動するものであり、特に終戦を境としてその後は欧米の性的アピールなるものが、我国にも侵入して、現実には相当にいかがわしい図画が公然として巷に横行しており、世人又これらを見ても何等意に介するところなく、羞恥嫌悪の情なぞ起すことなく、若しそのような情を抱くような者がありとせば、それは全く一部特定の世間知らずの者のみであることが明かであります。

現に本件図画と全く同種のものが公然と温泉街のお土産店で販売されておる事実も発見された位である。

原判決は右のような事実を世間知らずの故に認めることができず、更に又猥せつ性なるものが時代と共にはげしく流動するものであることの事実に気付かぬことによつてこれを誤認した結果、明治或いは大正時代の猥せつ性と現代の猥せつ性の基準を混同したもので、本来罪となることのあり得ない本件図画を右の事実誤認によつて有罪と認定した違法があるものである。

原判決は又猥せつ性の基準が時代と共に流動するものであることに気づかず、明治、大正或いは昭和初期の猥せつ図画の違法性をそのまま現代に適用しようとして、昭和初期以前の判例の教に素直に従つたものである。これは結極猥せつ性についての法令の解釈を誤つたものであり、その結果本件図画が本来罪とならざるものであるのにこれを有罪と認定したのはとりもなおさず、法令の解釈を誤つた違法のあるものというべきである。

一、然らば、現代において、可罰性を帯びる、猥せつ図画の基準如何が問題となるものであるが、これを一言にして言い切ることはむづかしいことであるが、

(1)  すくなくとも画が精巧であつて情感をそそるものであり、且つ芸術としての価値なきものであること。

(2)  写真又はこれに類似するものであつて、リアルな実感を与えることにより、羞恥嫌悪の情を催さしむるものであること。

(3)  男女性交の場面の写真が羞恥嫌悪の情を催さしむる程度のものであること。

(4)  其の他右に準ずる程度のものであること。

等の基準を当弁護人は考えるものであります。従つて本件図画は右のいづれにも該当しないものであることが明かで、その猥せつ性の程度を一言にして言えば、児戯に類するものと言い切つて大過ないと信じます。即ち画も甚々しく粗雑拙劣であり、且つ一見しては何等の猥せつ感がなく、これを折りたたむとか、二個合せるとかする工作をほどこした結果かろうじて出現するのが、単に何の変哲もない男女の性器が各一ケ宛である。

しかもその精巧さを言うならば便所の楽書程度と言い切つても言い過ではないと信じます。

二、当弁護人の右の観察が決して誤つていない証左として、現に本件マツチは釧路の映画館においてこれを観客に配布している際に釧路の警察官に発見されたものであるが、本件マツチの図柄は前記弁護人の考察の如きものであるし、右警察官が近代的感覚をそなえた常識豊かなる人物であつたとみえて敢えてこれを摘発する等の馬鹿さわぎをすることなく日活支配人西沢幸雄に対し好ましくないものであるから取りやめたがよかろうとの勧告があり、始末書一本でケリがついた事実があるので、控訴審においては右西沢幸雄を証人としてお取調べ相成つて、右の真相を明かにして戴き度い。

猶又右の警察官の処置が妥当なるものである証拠としては、映画業者はその宣伝材料等が北海道民生部の外郭団体である児童福祉審議会で、これら宣伝材料が青少年に対し悪影響を及ぼすおそれありと認めた場合は必ず勧告があることになつているものであるが、本件についてはそのような勧告もなかつた次第であります。

三、当弁護人は原審において、本件図画は単に男女の性器を二個並べたに過ぎないものであり、性器それ自体は格別に強い猥せつ感のないものであり、写真その他これに類するものと異り本件図画の如く幼稚拙劣なるものは、一種のユーモアすら有するものであり、名古屋市郊外の懸神社の男性性器の模造品の陳列や、其他の宗教における性器礼拝思想に基く性器の図画或いは彫刻等の陳列が罪とならないのと同様に本件図画も強く罪すべきものでないと主張したが、原判決では不幸にして近代的感覚の欠如した、時代錯誤の考察の結果、驚くべきことに体刑をもつて処断されたものであるが、原判決の右考察が間違いであつて当弁護人の主張が正当なるものであることを証明する証拠物を当弁護人はつい最近見ることができたのでこれも是非当審において証拠物として御取調べを願い度いものと考えております。

四、右の証拠物というのはサンフランシスコのサンセツト通り(テレビのサンセツトセブンセブン)に五、六軒のきをつらねて公然と販売している定価五ドルの女体の裸体姿のカラー写真であります。と云えば「なあーんだ」と思われるでしようが、その裸体姿というのは女性性器が婦人科医の診察でも受けるように性器が甚々わかるよう写しているものであります。

これは我々日本人はこれが公然と販売されているのかと驚く外ないところであります。勿論この種のものは日本の税関で発見されるときは没収とききましたが、本書はたまたま所持人が忘れていたままに持ち込まれたものでもありましようが、弁護人はアメリカと日本では風俗習慣が違うのだから法令の違うことも当然であつてアメリカの猥せつ性と日本のそれを同じに論じようと云うのでありませんが、この点については後述することとし、右サンセツト通りの店においてはこの外に女体のさまざまな姿体の映画を料金を取つて見せているそうです。

勿論性交の場合等はなくあくまで女性のみのものである由です。

このことは、前述した如く当弁護人の性器それ自体には強いわいせつ性がないと言う主張をアメリカにおいては認められているといつてよいものと信じて意を強くした次第であります。

五、法が取締る猥せつ性が時代と共に流動するものであることを疑う人はいないと信ずるが、然らば具体的に戦前と戦後においてどのような変動が生じたかを適確に説明することは甚々むづかしいと思います。

原判決がその変動に関してあまりにも知るところがないため法令の解釈を誤つたものでありますが、当弁護人は原審においてこの点についても充分に論じた積りであつたのです。

即ち、戦後欧米の風俗が怒濤の如く我国に浸入し、特にセツクスの表現に関して欧米風が流行した結果、一言にして云えばセツクスの露出趣味が発生したといつてよいでしよう。週刊紙から、一般雑誌、単行本に至るまで、エロ文章、エロ図画が充満している。最近弁護人が店頭において発見したものに、二見書房刊行の「別冊エロス絵画集」ポンペイ編があります。その内容は古代ローマの寝室の壁画の中から採用したものであるそうですが、全裸の男女が性交している画であります。古代の壁画を写真に取つたものでありますから、少々は不明確なところがありますが、なんのことはない、ヤクザ者が売り歩いているエロ写真と全く異るところがないものであります。よくまあこんな本が公然と発刊されたものであると驚き入る次第であります。勿論右の書は美術又は古代文化と云う名目のもとに許されたものと思われますがこのような本が公然と発刊されてもあまりに驚かない社会、それが現代の日本社会の通常の姿であり、この状態から図画の猥せつ性を論ずべきである。

六、当弁護人は右のような図画がその芸術性又は学術性の故に猥せつ図画に該当しないかどうかという点を論ずるものではなく、戦前であつたならば当然発刊禁止処分となつたであろうところの図画が、現今公然と店頭で販売されており、世人が少しもこれを異と感じないところに、近代の猥せつ図画の違法性の基準を究命しなければならないと考えます。

原審判決前に当弁護人が参考までに札幌市内の書店を見て歩いただけで、大層この種の出版物が汎濫している点を発見しました。特にその中で甚しいと思われるものに、芳賀書店発刊「耽美うき世絵ばなし」神保明世著でこれは「続耽美うき世絵ばなし」という続編がありますのでこれも証拠物として当審で御取調べを載き度いと思います。右の本は全く春画紹介であつて、芸術に名を借りた猥せつ図画の販売ではないかとさえ疑いたくなる程のものでありますが、内容を読むと角別猥せつ図画販売の企図のないことがわかりますが問題はこのような春画が急所はふせてあるとは云い乍ら公然と販売されて何人もあやしまない世相を戦前のそれに比較して見るならば、法の禁圧する猥せつ性が時代の変動に従つて流動するものであることが、社会的事実として何人もこれを認めないわけにはいかないものと確信せざるを得ないところであります。

このように流動する猥せつ性についての法令の適用は当然に又流動しなければならないものであるのに原判決の判断は全く時代の進展を忘れたものと云わざるを得ない。

七、猥せつ図画が青少年の風教上よろしくないという点が一番大事な問題であつて、充分に成人した者にとつて猥せつ図画は決して風教上の問題となることはないと思う。まして人間齢五十才にも達するならば、本件図画のようなものは何等の感興すら覚えるものではない。

弁護人はこの問題に関して云うならば、前述した、浮世絵の春画等は、青少年の風教上よろしくないことは本件図画の数千倍に当たるものであることは何人も認めざるを得ないところでありましよう。

特に本件マツチの如きは成人向映画の観客に配られたものであり、このマツチは九分九厘煙草用に使用された後は捨てられる性質のものであり、二ケのマツチが未成年者の目にふれる機会が甚々少くないものと考えられるものである。

このように風教上数千倍の悪影響を有するものが公然と店頭で販売され取るに足らん本件図画が体刑をもつて処罰される等云うことはまことに不思議な現象と云わなくてはならない。

ちなみに本件ハンカチは特定人に配布されたものであるから、これが未成年者の目にふれる機会は大変少くないものと信ずる。

八、ここで弁護人は前述したサンセツト通りで販売されている女体写真に関して日本とアメリカの猥せつ性について考察することも、現在の日本の法律解釈上決して無駄なものとは思えない。

猥せつ性の基準が文化の発展に従つて高まるかどうかについてはにわかに結論を出すことは出来ないとは思うが、話にきく北欧先進国においては右のような女体写真なぞはお土産店の店頭に堂々と陳列されていると聞くアメリカにおいても州によつて異なるようであるが、サンセツト通りにおいては何かこそこそと販売されている感を受けるがそれでもこれが処罰を受ける等いうようなことはないものであることは明かである。

更に又戦前の日本における猥せつ図画の極端な取締のきびしさ等を考え合せるとどうも文化の程度と密接な関係があると推断せざるを得ないし、アメリカにおいてはサンセツト通りで、前記女体写真が公然とまかり通るのに日本においては稚拙きわまりない本件図画が罰金では不足で体刑を以つて処罰されるということは日本とアメリカの文化の差をはるかに通り越した現象であつてとても同時代の人類の間に起きた、法律問題とは考えられない位のものであります。

九、猥せつ図画の可罰性の基準は、前述の通り、大変むづかしいものであることは間違いないし、この問題は元来大衆の感覚の問題であつて、世情にうとい裁判官の判断だけでは心もとないものであると信ずるので、この点に関しては広く社会各層の人達の判断を参考にすべきものと信ずるので、これらの証人の取調べを用意します故何卒証人調をお願いしたい。

十、以上の諸点を総合判断して弁護人は被告人等の所為は罪とならざるものと確信するので、原判決を破棄して、無罪の御判決あらんことをお願い致ます。

被告人野口健寿の控訴趣意

(一) わいせつ性の認識

過去に於いて類似品(タオル、カード等)を温泉場などで見聞して居り又他社の宣材に於いても同種の物が配られていたと云う漠然とした記憶もありましたので、多少奇抜なものと云う程度でこの様に法に触れるなど考えも及ばず、わいせつ物などとは思つて居りませんでした。

御推察頂けると思いますが、頒布された期間を考えても若しわいせつ物だと思つて居れば、この様な頒布は当然中止させて居りました。

特にマツチの図柄の三種類の組合せなど警察に於いて無理に種類を増したもので一組のみ聞いて居りました。

(二) 共同謀議

警察の取調べに於いて特に強調された謀議についても作成前に打合せもなく数量、頒布方法など知つていない。

ハンカチの事件発生後(四三年一〇月一二日)マツチ、ハンカチの数量などを知つた様な状況です。

(三) 作成の意図

私が佐々木課長より聞いた作成の意図は次の通りです。

マツチ

女浮世風呂、明治邪教伝の映画配給に際してこの種の映画は、四〇年七月以降日活にはなく手馴れて居らず、館主さんの喜びそうな物を何か作ると同時に映画のP・R、のために作成しました。

ハンカチ

札幌の前売券発売時にお世話になる人

館主で親日活派の人などにお礼程度に贈呈するため作成しました。

(四) 作成、及び頒布販売の許可

本社に於いて作成された宣伝予算に基き全国宣伝会議で協議決定された方針に従い、各支社の宣伝活動が行なはれる。

殆んどの場合支社長の承認事項より状況報告に止まるのが通常であり、極端な云い方をすれば支社長の権限外の様なものです。

この件に関し警察の取調の際強引に私の承認事項と断定されましたが、今回のマツチ、ハンカチについては通常の宣伝活動と同様遂行されて居り、その数量など知つたのは四三年十月十二日ですこの様な状況下にありますので作成、頒布の許可又その中止の指示など行つて居りません。

(五) 販売の目的

マツチ、ハンカチ共々販売して利益を生むなど毛頭致して居りません。作成代金の一部をその発注により負担して頂く程度で、マツチ、ハンカチの製作費の一部補填に過ぎません。

原審は組織を利用して大々的に頒布販売を行つたと云はれますがその様な大層なものでなく、特に注文により頒布したものであり決して強制的なものでありません。

又誰にでも配ると云う様な目的でもありません。

以上原審判決に於いては社会的影響が重いと裁判長より説示を受けましたがその影響度は稀薄なものだと思はれます。ここに控訴を致しました。

併し如何なる物とは云え、私の不注意により世間をお騒せ致しました事は誠に申訳け有りません。

今後この様な事は絶体致しません。

何卒御寛大なる処置をお願い申上げます。

被告人佐々木律夫の控訴趣意

一、映画産業を取りまく環境は、私が第一審裁判所に提出した「映画界の現状と日活」に記述の通り、極めて厳しいものがあり、企業の存立そのものさえ脅かしつつある映画観客動員数の著しい減少に対し各企業とも日夜その対策に腐心致しているわけであります。

かかる状況の中で、映画部門に携わる社員は、日常の仕事そのものが、常に死活問題に繋がるという危機意識のもとで業務に取り組んでいるわけであります。

営業の立場から大まかにみて企業への貢献は

一、映画観客の直接的増員

一、映画館経営館主に対する営業意欲の向上と収益の増大

のふたつにざつと分けて考えられ、我々は常日頃この両面に於て叡智をしぼり、サービス面の徹底、PRの滲透に日夜対策をこうじているわけであります。

今回の我々にかゝる被告事件の物件は、宣伝材料の量から云つても通常北海道内の映画観客増大を図るには極めて不充分な数量であり、映画館経営館主に対する営業意欲の向上とサービス面の強化を主眼として作製されたものであり、日活北海道支社宣伝課の限られた宣伝予算では新聞広告、テレビスポツトにその宣伝費の殆どが費消されるので、当宣伝課独自の企画として奇抜なアイデアでもつて作製され館主の充分な同意と納得を得る特殊宣伝材料については、事前承諾、事後承諾を問わず宣伝費を補助して頂くこととして長年慣行的に有償の形をとつて各映画館に配布しているのであります。

今回の被告事件についても物件の頒布先は、すべて恒常、日活映画を上映している映画館であり、各映画館の物件受領後のその取扱いについては、すべて各映画館館主、支配人の興行常識と社会的経験そして自由裁量に委ねられているのであります。

一、マツチについて

今回被告事件のマツチは、一ケでは絶対にわいせつとみなされるべきものではありません。

マツチについては前述の通り、各映画館館主、支配人の興行常識、社会的経験そして自由裁量に委ねて配布されており、その配布に当つては北海道全域どこの地区に於ても、社会的にも法的にも問題になつた所は一ケ所もありません。

只、釧路警察署に於て、八月二・三日頃、釧路日活劇場支配人西沢幸雄を同署に呼んで、その配布について事情聴取をした事がありますが、特に問題とはならなかつたのであります。

マツチが今回の被告事件としてクローズアツプされたのは、私が後述のハンカチで帯広警察署に拘留中、日活北海道支社内の家宅捜査による押収帳簿から付随的に発見されたものであります。

マツチ配布の現場を現行犯として発見されたのでなく、又マツチ二ケ合わせたものを一般人が所持していたと云うのでもありません。

″司法警察員佐藤頼男作成の「わいせつのマツチの組み合せについて」と題する書面″が(証拠の標目)にありますがこの中に記載のマツチの組み合せ及び写真は、警察職員に於て作成されたものであり、このような形で配布した映画館は一館も無く、今回の被告事件に証拠として提出されている各映画館館主、支配人の供述調書に記述の通りマツチは一ケづつ配布されており巷間市井に於て不特定多数人の中で、司法警察員佐藤頼男氏作成のような形でマツチが組み合わされたと云う証拠は全く無いのであります。

一、ハンカチについて

昭和四十三年十月十二日、私が帯広警察署防犯課に任意出頭をもとめられたとき、帯広警察署防犯課長警部川上孝久氏より、このハンカチは昭和十四年の大審院判決により、わいせつと認め逮捕・拘留すると告げられたのであります。

私は昭和十四年の大審院判決など全く知らずに今回の被告事件となつたハンカチを作成したものでありますが、この事は帯広警察署に於ける逮捕時の弁解録取書に記述致しております。

戦前に於て大審院、控訴院及び下級裁判所が公権に基いてわいせつと判断をくだした物件のうち、現在の日本に於て、自由に一般大衆の眼に触れるものが多数ありますが、戦前わいせつと判断された物件のうち

現代の日本に於ては

何がわいせつであり

何がわいせつでないのか

その基準を明確に具体的に示してほしいと云う私の希望は、警察官及び検察官に於て全く無視され、第一審裁判の記録を見ても明らかですが、裁判所に於ても何等その基準・判断が示されていないのであります。

近刊の「主婦と生活」七月号には、女性性器に男性性器が没入している図解を堂々と掲載しております(四一〇頁、四一一頁、四一八頁)。家庭婦女子の眼に堂々と触れる状態を予見して公然と不特定多数人に販売せられているのであります。

同誌の記事は医学的解説に名を借りてはいますが、現代の日本の読者の好みにマツチし、売れるから掲載するのであり、もしも世の婦女子忌諱・記憚を浴びるならば、その様な婦人雑誌は一冊も売れないわけでありますが、現今の婦人雑誌に対する世の婦女子の抵抗と非難は全く無いのであります。

わいせつと称するものについて最も留意せねばならぬ婦女子に於ても、現在の日本の社会はここまで進んでいるわけであり、ましてや今回のマツチやハンカチは限られた成人、限られた常識人にのみ配布されているのであります。

人間性の解放と自由がどんどん進む現在の日本に於ける社会現象を無視し、社会常識から遊離し、法律の曲解を金科玉条として、公権に基き裁判官独自の見解によつて自由裁量・自由心証でわいせつにつき判断をくだすならば、中世の暗黒時代と何等変りないのであります。

婦人雑誌に明快に記載してある男性性器を没入させた女性性器の図解がわいせつでなく、二ケ合わせることによつてはじめて具現し、折りたたむことによつてはじめて具現する稚拙きわまる絵がわいせつと判断せらるその基準と理由は一体何なのでしようか。

一、検察官論告について

第一審裁判に於ける検察官論告について、裁判所より見解を示されませんでしたが、重い量刑から思料して判決に影響を及ぼしたと考えられますので、事実誤認の点を指摘させて頂きます。

(イ) 日活のような大会社が、かかる事件を起したという論告について

日活は大会社なるが故に、その社会的影響力が大きいということでありますが、現今の日活は残念乍ら著名なのは社名のみであり、業績の点からも生産力の点からみても大会社の範疇には属さないとみるのが産業界及び一般社会の常識であります。公害問題で世の弾劾を受ける大工場を持つ大会社や、政府の保護政策のもとに自動車等を大量に生産、交通戦争で年間一万人を越える人命を殺傷する大会社と比較すれば、日活のもつ社会的影響力は極めて微々たるものであり、日活は未だかつてその生産物に於て世の弾劾を受けたり、人命を殺傷したことは絶対に無いのであります。今回の事件も会社の格からみるならばその社会的影響力は取るに足らぬものであり社会的に問題になるような性質のものではないのであります。

(ロ) 個人的に自己の存在を示そうとして事件を起したという論告について

人は誰でも、仕事の遂行に於て個人的示威とか欲望があつたかどうかと云うのは、結果からみての、ひとつの評価として現れるものであり、最初からそういう含み、そういう狙いで仕事に取組むというのは組織体の中では行なえるものではないのであります。

個人が仕事に取組み会社に大きな成果をもたらした場合、評価され抜擢されるのは個人でありますが、それをもつて個人的に栄誉を狙つて仕事をしたと指摘するのは一般社会の常識では無いのであります。

ソニーの井深社長、ホンダ技研の本田社長は″会社の為に仕事をするな、個人の為に仕事をせよ″と常日頃申して居りますが、個人が己の為に一生懸命仕事を励めば、すなわち会社にも利益をもたらすという含みで云つているのであります。

このように普遍的且一般的問題を今回の事件では私の心証として殊更に特別の動機として取り上げられているわけでありますが、検察官も抜擢され地位が上るのは究極すれば個人的業績に基いてであり、それをもつて個人的に存在を示そうとして仕事に取組んだから出世したと一体全体誰が云えるのでしようか。

以上、わいせつについての検察官見解は、論告の中に見当りませんので日活は大会社でないからその社会的影響力は少ない点と決して個人的存在顕示で今回の事件を惹起したのではない点に於て事実認定の誤りを指摘いたしました。

一、マツチについても、ハンカチについてもこのような形で作成されたものが、現在の日本に於て刑法に抵触すると判断されるのであれば、いかに奇抜なアイデアを宗とするとはいえ宣伝に取り入れるような事は決してしなかつたのであります。

しかし同巧異曲、同巧類似の物が、戦前はいざ知らず、現在の日本に於て公然と販売されているの情を知り作製したわけですが、現代の日本の一般社会との連帯感を著しく欠如した階級に属する人達にとつては、或はわいせつと感じる恐れが必らずしも無きにしも非ずと云う指摘も受け、その配布に当つては充分なる留意をもつたのでありますが、にもかかわらず今回の被告事件を惹起せしめ、社会的に多大の話題を提供し、司法当局を煩わして国民の税金を徒に費消せしめ、私の全く至らぬばかりに社会一般に御迷惑をおかけしました事を深くお詫び致します。

充分に反省懲りておりますので今後この種の事件は絶体に起しません。

御寛大なる処置をお願い申上げます

弁護人星正夫の追加控訴趣意

一、猥褻かどうかをきめるのは、被告人等が自白しているかどうかが問題の決め手ではなく裁判官による法的価値判断乃至評価の問題である。

従つて仮令被告人等が本件物件を猥褻図画であると自認していたとしても(事実は然らず)宜敷しく検討し必要とあれば鑑定を求めるとか納得できる理由を挙示すべきである。

弁護人としては本件物件は刑法第一七五条に謂う猥褻図画に非ずと主張し来つておるが、その一証拠として北海道大学法学部教授小暮得雄氏の鑑定書を当審において提出するものである。

二、被告人佐々木律夫が御庁に提出した控訴趣意書中同人が指摘している通り、証拠標目、司法警察官佐藤頼男作成の「わいせつマツチの組み合せについて」と題する書面中マツチの組み合せ及び写真は警察職員において作成されたものであるが、このような形で配布した映画館は一館もなし。

原審に証拠として提出されている各映画館主支配人の供述調書に記述の通りマツチは一ケ宛配布されており巷間において不特定多数人の中で司法警察官の報告書のような形で組み合わされたという証拠は全く無いのである。

交付する者の気づかなかつた特殊の畳みかた組合せを交付を受けた者ここでは司法警察職員が考察したとしても交付した者に罪責を生ずるいわれはない。大切なのは頒布販売のしかたなのである。

例えに記録中より二、三例示すれば池田純一供述調書(記録一九六丁)「日活パチンコ店の入場客一人一ケ宛宣伝のために配つな、いかがわしいものとは判らなかつた使用方法は聞いていない」

瀬戸二夫供述調書(記録二〇三丁-二〇五丁)「マツチは一個づつやつている二個を一組にやつていない」

藤田昌直(記録二一五丁)「わいせつマツチとは判らなかつた、ボール箱に入れてばらにしとつていかせた」

八戸譲一(記録二五五丁裏)「一個宛くばつている。私がお客さんにやつた方法ではなんでもないのではないかと思う」

村上喜信(記録二七八丁裏-二八〇丁)「マツチは一個宛くばる、一人で二個貰つた人はない、この方法で入場者に配つても法にふれないと思う」

夷石龍彦(記録三一五丁)「このマツチ二個合せても余りはつきりした図画も出ないので別に気にもしてなかつた」

松本利明(記録三二八丁)「一個宛渡すマツチの図柄を見てもワイセツ的なものとは思わなかつた」

菊池蓉子(記録四〇一丁)「木戸口においておき入つて来るお客さんに自由勝手に持つて行くようにした」

田鍋後勝(記録四一八丁)「マツチについて説明書なども入つておらずわいせつの絵になることは全くわかりませんでした (記録四一七丁裏)「警察の方が話されたようなわいせつな絵とも思いません」

三、別個の絵模様を生ずべき特殊な畳み方を知る由もない普通人としては性的羞恥心を害するいわれがないし、逆にその間の消息を知つている一部好事家としてはいわば玄人である故に何ら羞恥、嫌悪の情を催すに到らないのである(事情は本件マツチについても同前である)

さらに本件の場合は特殊な畳み方乃至組合せから生ずる絵模様そのものも具体的写実的な表現から遠ざかつたものであり決して顕著な「わいせつ」性を帯びるものではない。

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